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海の近くに、山の近くに、あるいは実家に。自分の望むところで暮らせれば――そんな風に考えたことはないだろうか。
農林水産省の元官僚で、2017年にゲストハウス「Little Japan」を開いた柚木理雄さんは、こうした人々の思いを実現するため、「多拠点生活」の普及を目指している。
多拠点生活とは、自由気ままに全国を旅しながら暮らす「アドレスホッパー」のようなイメージですか?こう尋ねると、柚木さんはにっこりして「いいえ、違います」と答えた。
では、彼の思い描く、未来の働き方と住まいとは、どんな姿だろうか。
――柚木さんの考える「多拠点生活」とは、どんな暮らし方でしょう。
柚木:複数の拠点を持ち、それぞれのコミュニティで良いところ取りな暮らしをする、という考え方です。 勤めている人の大半は、職場との距離を基準に、住む場所を決めざるをえません。とはいえ通勤にかけられる時間には限界もあります。東京では都心に通う人の、約半数が片道1時間以上の地域に住んでいる一方、1時間半を超える地域から通う人は、全体の5%程度にすぎません。毎日通うことを考えた場合、片道1時間半、往復3時間が限界ではないでしょうか。僕は、都心と自分の好きな場所に拠点を構えることで、通勤圏を広げたいと考えています。
例えば平日は職場近くのゲストハウスに泊まり、仕事をしながら利用者同士の交流や都会生活を楽しむ。休日は、地方にある自宅で家族や友人と過ごす、あるいは海辺の家で趣味のサーフィンを満喫する、といった具合です。群馬や山梨、静岡等の近県なら、休日だけのUターンやIターンも可能です。 地方は家賃水準が低いので、都心からの引越しで浮いた家賃と、不要になった通勤定期代をあてれば、週末の長距離移動の費用は大抵吸収できます。長くて疲れる満員電車の通勤も、ほぼしなくて済みます。
――多くの拠点を渡り歩くような生活ではないのですね。
柚木:多拠点になったとしても、安心して帰れる場所はあった方がいいと思っています。僕は「旅するような暮らし」もしてみたことがありますが、荷物が重くて移動は疲れるし、Wi-Fiなど含め環境の変化により、仕事の効率が落ちることもあります。何より毎日のように新しい環境になることで、心理的な負担が大きいと痛感しました。
今のところ、拠点のひとつはビジネスが集中する東京に置くのが現実的かもしれません。ただ、今後リモートワークがもっと普及すれば、将来的には山と海に家を持つ、夏と冬で家を住み分ける、といった選択肢も出てくると思います。
――柚木さんは、全国のホステルと連携した定額泊まり放題のサービス「ホステルパス」も事業展開していますが、ゲストハウスやホステルパスを始めた経緯を教えてください。
柚木:まず、地方で深刻化している空き家問題を解決しなければ、という問題意識がありました。そのため、農林水産省で勤務するかたわら、2012年にNPOを立ち上げ、空き家を利用したコミュニティづくり等に取り組んでいました。仕事とNPOの両立にはやはり苦労もあり、複数の仕事を持つ「パラレルキャリア」の環境を整えたい、という思いも強まりました。
また日本では、外国人観光客の増加ペースを超えてゲストハウスが乱立し、経営が必ずしも順調ではないゲストハウスも増えてきています。このままでは、ゲストハウスの多くが空き家に戻ってしまうという危機感もありました。
こうした中で、ゲストハウスを利用した多拠点生活のしくみを作れば、地方の人口が増え、空き家も減るのではないかと思ったのです。また、定額泊まり放題のサービスがあればコスト面のハードルも下がると考えました。
――多拠点生活によって、働き方も変わりますか?
柚木:地方に興味のある東京の人は増えており、ある調査によると4割ほどが地方への移住も考えているそうです。しかし移住するにあたって、最大の懸念は「仕事」です。多拠点生活なら、仕事の軸足を東京に置いたまま地方に住めます。人が住めば消費が生まれ、税収も増え、地方の活性化にもつながります。
また、農業や介護、ウェブデザイン、記事作成等、地方でできる仕事自体はたくさんあります。ただ、ビジネスの規模が小さく、本業にできるほどの収入は見込みづらいのです。移住先で、副業としてこうした仕事をすれば、パラレルキャリアも実現できると考えました。
僕も4月から、多拠点生活を始めました。多摩地域にある中央大学の特任准教授を引き受けたので、大学近くに家を借りたのです。週の前半は多摩で過ごし、後半は都心のシェアハウスやゲストハウスに泊まっています。
――ご自身で多拠点生活を実践したご感想は?
柚木:すごく快適ですよ!多摩は自然が豊かで、静かなところです。徒歩で温泉に行けるし、家賃も安い。都心で一人暮らしをしていたときの半額程度で、ほぼ同じレベル、しかも駅近の物件に住めました。大学への通勤時間はドアからドアで15分ぐらいです。
一方で、自分の会社は、浅草橋と日本橋にあります。多摩からは1時間半かかり、毎日通勤するとなるとつらいですが、週1回だけラッシュを避けて移動しています。
そして仕事の都合だけでなく、東京暮らしも楽しいんです。情報が早くておもしろい人も多く、新しいサービスも集中しています。
ゲストハウスの利用者にも、地方でNPOを運営しつつ、収入を得るために月の半分、ここに泊まって通勤している人がいます。以前はホテルを転々としていて、費用は高いのに落ち着かないし、荷物の持ち運びもたいへんだったそうです。その点、Little Japanには、荷物の預かりサービスもありますから。
長野に移住してコテージを改装し、宿泊とガイドツアーを始めた人もいます。東京のゲストハウスを拠点にしながら、次第に軸足を長野に移そうとしています。徐々にパラレルキャリアと多拠点生活の成功例が増えてきた、という実感があります。
――家庭を持っている場合でも、多拠点生活は可能なのでしょうか?
柚木:Little Japanには、親子連れのお客さんもいますよ。お母さんは週2~3日ここを利用して通勤時間を減らし、浮いた時間で資格の勉強を始めたそうです。通信制高校に通う息子さんも同宿し、利用者同士の交流を楽しんでいるようです。
子供がいても、毎日帰宅しなければいけないという考えから離れれば、生活はかなり柔軟になるのかもしれません。また、家が広く自然も豊かで、待機児童問題も都会ほど深刻ではない地方暮らしは、子育て世帯にとって魅力的だと思います。
――多拠点生活の実現には、企業の柔軟な対応が不可欠です。
柚木:週3日ずつ2つの仕事に就くといった、柔軟な働き方を認める企業が増えてくればいいと思っています。
ただ、パラレルワーク自体にも、メリットとデメリットがあります。メリットは、ひとつの仕事の成果なり人脈なりを別の仕事に活用できて、キャリアが広がること。僕もNPOで、苦労して一からイベントを作り上げた経験があったからこそ、ゲストハウスをスムーズにオープンできたと思っています。そして、一連の活動が認められて、大学から「地域資源を活かしたビジネスを作る」という講座の講師に迎えられました。
一方、デメリットはいくつかのことを同時にやるには慣れが必要で、向き・不向きがあることです。同時進行に慣れていないと仕事の効率が落ちる可能性があります。ですから、誰もがパラレルキャリアを目指す必要はなく、転職を含めたキャリアチェンジをしやすい環境が必要だと感じています。
個人的には、多くの企業が福利厚生でホステルパスを買ってくれると、社員がみんなハッピーになると思いますね(笑)。
――多拠点生活実現への課題はありますか。
柚木:実は地方で、空き家を借りたり、買ったりするのは簡単そうに見えて、非常に難しいのです。空き家はたくさんあるのに、わざわざ移住希望者向けに、新築の家を建てている自治体さえあります。
空き家が市場に出ない理由はさまざまです。親族が年1回帰ってくる、仏壇がある、相続でもめている、片付けるのが面倒等、持ち主側の事情に加えて、所有者すらわからない場合もあります。こうした空き家は、自治体に「利用できない」と分類され、情報すら表に出ません。
例えば、借り手が片付けの費用を負担する、仏壇を残したまま使うといった解決策はあるのです。借り手が年1回帰省する親族のために、数日だけ家を空けているケースもあります。
少子化が進み、これからも空き家は増え続けます。優良事例を行政の枠組みに組み込めば、活用はもっと進むはずです。
――マイナビが5月に発表した、就活生の地元就職に関する意識調査で、Uターン希望者の割合が初めて50%を割り込みました。地方転勤を嫌がる学生も増えています。多拠点生活の普及で、若者の意識は変わるでしょうか。
柚木:繰り返しますが、Uターンを阻む一番の壁は、仕事の選択肢が少ないことです。就活生ならなおさら、それでは帰れないでしょう。また、刺激の多い東京を捨てることを、嫌がる人も多いと思います。
多拠点生活で仕事を確保でき、東京生活も楽しめるならUターンしてもいいと、学生に思ってもらえる可能性はあるのではないでしょうか。東京に拠点を確保できれば、地方転勤に対する心理的なハードルも下がるかもしれません。
――最後に、今後のご自身のキャリアを、どのように考えていますか。
柚木:前例はないかもしれませんが、農林水産省に戻れたら、省庁だからこそできる施策に取り組みたいです。
僕は、10年弱の農林水産省勤務で9つの部署を転々とし、さまざまな仕事を担当しました。そのなかで、人材と部署のミスマッチも見てきました。
適した人材をマッチすれば、もっと効率良く仕事は進むはずです。特に、大きな改革に着手するときは、「改革を進めたい」という内発的な動機を持ち、長期間、責任を持って取り組める人材を集める必要があると思います。
だから、次に戻れるなら歯車としてではなく、自分の望む施策を推し進めるプロジェクトの一員として働きたい。省庁にプロジェクトベースの働き方が広がり、かつ僕自身がキャリアを積んで、パラレルワークで蓄積した実績を活かせるようなチャンスがあればいいなと期待しています。
(構成・文 有馬知子)