トレンドnavitrend navi
昨日の昼に何を食べたか、あなたは覚えているだろうか?
私たちの体を作るのは、言うまでもなく1日3食の食事だが、つい「おなかが膨れればいい」など、ぞんざいに扱ってしまいがちだ。目の前の野菜や肉がどこから来たのか、思いをはせることもあまりない。
農業関連の事業を幅広く展開する「エムスクエア・ラボ」(静岡県菊川市)創業者の加藤百合子さんは、生産者と消費者の距離を縮め、食の価値を高めようとしている。これまで、NASAのプロジェクトに参画し、キヤノンに勤務した経験を持つ異色の起業家が目指す、「農」を通じた社会課題の解決方法とは?
――エムスクエア・ラボの事業を通じて、加藤さんは何を目指しているのでしょうか?
加藤:全事業のベースにあるのが、「農業×Any=Happy」という公式です。つまり、農業と流通、IT、教育などを掛け合わせることで、さまざまな社会課題を解決しようと考えています。
多くの人は普段、漫然と野菜を食べているのではないでしょうか。消費者が、農家や流通に関心を払わず、ただ見栄えのいい野菜を選ぶようになった結果、日本は世界有数の農薬使用国となっています。
味の良い安全な野菜を作ろうと、日々努力する生産者はたくさんいます。しかし、消費者に届かなければ、生産者の努力は正当に評価されず、モチベーションも低下してしまいます。私たちは農業×流通、つまり物流改革を中心に、消費者と生産者のコミュニケーションを取り戻したいと考えています。
――具体的には、どのような事業を展開しているのでしょう。
加藤:創業後まもなく、静岡県から委託を受け、農家の情報発信サイトの運営を始めました。さらに、中小農家の物流を効率化するため、「やさいバス」という保冷車を走らせて、農家と買い手である直売所や道の駅、飲食店、食品加工会社を直接つなぐ事業も始めています。
農家さんの話を聞くうちに、農作業を効率化したいというニーズがあることがわかりました。日本の製造業は、世界屈指のノウハウと技術を持っています。これを農業に導入することで、生産者の負担を軽くし、品質を高める事業も始めました。単価や出荷量、出荷先などのデータを活用して、農業経営の「カイゼン」を支援しています。
――ITやドローンなど、先端技術も役立ちますか?
加藤:ITやドローン、自動機械などはツールにすぎず、やみくもに取り入れてはいません。先端技術を導入できるほど業務効率化が進んだ生産者は、まだ非常に少ないのです。
また、農業生産法人も、多くは経営が安定しているとはいえません。静岡県内では、一昨年からの台風被害の影響で、大きな法人が立て続けに2つ破綻しました。
――生産者の経営基盤が弱い理由は何でしょうか?
加藤:なんといっても、食に支払われる対価が安すぎることです。消費者にとって、安さは悪いことではありませんが、あまりに食材と生産者が尊重されていないと感じます。
自分のポリシーを持って、食品を選ぶ消費者が少ないことも一因です。例えば、2016年の有機野菜の面積割合を比較すると、イタリア14.5%、ドイツ7.5%、フランス5.5%で、農業を救うために最も重要なのは、消費者の意識向上だと思います。
――小・中学生を対象とした「農業×教育」も行っていますが、意識向上が目的でしょうか?
加藤:食選びはもちろん、何事に関しても自分の意思に基づいて行動を起こせる、「自立した大人」を育てることが目的です。
新しいことに挑戦しようとするのを、怖がっている子が多くいます。こうした子どもたちに、地域の課題に挑む力を身に付けてほしいと思いました。地域おこしの戦力として、「イノベーター」を育成したいという菊川市の要望もあり、2016年から「アグリアーツ」というプログラムを始めました。今年は小学6年生から中学2年生まで、14人が参加しています。
――農業を通じて、イノベーターが育つのですか?
加藤:農業は、人間が最初に始めた経済活動であり、科学と工学、社会学など、幅広い学問が必要とされる、優れた教育現場です。
また、子どもたちが取り組むのは単なる農作業ではなく、農業を通じた地域の課題解決です。菊川市の課題は、特産品であるお茶の需要が減っていることですが、子どもたちはお茶をハーブティーにして、若い世代に買ってもらおうと考えました。茶葉の製造やパッケージデザイン、販売の方法まで自分たちで決め、売り場で起きる日々の課題に取り組みながら、年間の売上目標300万円の達成を目指しています。
――子どもたちの意識は変わりますか?
加藤:印象的だったのは、ある参加者(中学2年生)の「生きる自信が持てた」という言葉です。子どもたちは、義務教育という、守られた箱庭のような場で生きています。しかし、プログラムでは現金をやりとりし、「リアル」な大人と渡り合うことになります。
思うように買ってもらえなかったり、時には無下に断られたりするなど、さまざまな経験を重ねる中で、大人になることが怖くなくなるのではないでしょうか。それが「生きる自信」という言葉になったのだと思います。
――イノベーターが増えることで、農業は活性化しますか?
加藤:「地域のために良いことをしたい」というイノベーターの思いだけでは、物事は動きません。集落には昔からの慣習や暗黙のルールがあり、水の利権なども絡んでいます。このため、集落を取り仕切る生産者と、イノベーターとの相互理解が不可欠です。
当社では次世代の生産者育成を目指して、農業にも取り組んでいますが、地元農家の目は当初冷ややかでした。
そんな農家の人たちも、年数を重ねるうちに、農地を提供してくれるようになりました。地元の生産者たちが、若者の挑戦を応援し始めると耕作放棄地は減り、農業は活性化します。
ちなみに、当社の農業長は20代後半の男性ですが、2つの農業生産法人を兼務して安定収入を確保し、家庭も持っています。地方は通勤ラッシュもないし、副業を持つのも当たり前。一度住んだら、都会暮らしには戻れないですよ。
――加藤さんが農学を志したのは、子供のころ、環境問題に危機感を抱いたことがきっかけなのだそうですね。
加藤:テレビアニメの「ドラえもん」で、環境汚染で酸素が足りなくなるという話を見たのです。当時は、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」がベストセラーになるなど、環境問題が非常に注目されていました。私は怖がりだったので、地球に生きられなくなったらどうしよう、自分がなんとかしなければと思い詰めたのです。
――東大農学部から英国の大学院へ留学、NASAのプロジェクトに参加するなど、キャリアを積んできました。それが一転、結婚してからは菊川市へ移住。迷いはありませんでしたか?
加藤:まったくありませんでした。結婚前に菊川へ来て、深い緑と広い空を見て、「住んだら楽しそうだ」とワクワクしました。夫の親族の会社で、数学の仕事ができると聞いていたので、「それならいいか」とも思いました。キャリアを築きたいという願望は、昔からないですね。
ただ、とにかく数学が大好きで、難問であるほど解きたくなります。目の前の社会課題を解くためには、お金がないという問題をまず解決しなければという具合に、「解きほぐす」ことに興味を持ってしまうのです。それを繰り返した結果、今に至るという感覚です。
――将来の展望をお聞かせください。
加藤:事業を持続可能なしくみにして、協力してもらっている行政や地元の人たちに恩返ししたいと思っています。その後は、農作物の流通が未整備なアジアやアフリカの国へ行き、課題解決のお手伝いをしたいです。やさいバスを導入したいという、海外からの相談もすでに来ています。
世界では、農地の5分の1が、排水施設の未整備などによる塩害で使えなくなっています。一方、日本は亜熱帯から亜寒帯まで、きびしい自然の中で農業が営まれています。これまでに集積した高度な技術と知見の一部は、他国でも応用可能だと思います。日本の農業は、世界の食糧難に対する解決策のひとつになりうるのです。
(構成・文 有馬知子)