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あえて言うまでもなく、コロナ禍は医療者に多大な負荷となった。ウイルスとの闘いは2年以上に及ぶが、なかなか先が見えない中、心臓血管外科医・天野篤氏は「コロナを言い訳にするな」と周囲を鼓舞し、日々患者に向き合っている。そんな天野氏に今、心に去来する思い、日本の医療の現状と未来について伺った。
天野篤氏の名前を日本はもちろん世界にとどろかせたのは、2012年2月に行われた上皇陛下(当時は天皇陛下)の「冠動脈バイパス手術」だ。心臓の冠動脈が狭くなり滞っていた血流を再建するため、身体の別の血管を繋いで迂回路を作るという手術。従来は、人工心肺装置を使って、一時的に心臓を止めて行う術式が採用される。しかし、高齢の上皇陛下の場合、心臓を止めることは身体的にかなりの負担になるため、人工心肺装置を使用せず、心臓を止めないで「オフポンプ式」で行うことが決定された。そこで名前が挙がったのが天野氏である。術中はもちろんのこと、術後の経過も良好なオフポンプ式で積極的に手術を行い、当時他に類を見ない数の手術を成功に導いた“第一人者”としての実績が買われたのだ。
「私は医学部にかろうじて引っかかった落ちこぼれでした。能力的に他の学生より劣っているとは思いませんでしたが、低いところからスタートしていることは事実です。その差を埋めるために、自分の中でも何か光るものを見つけるしかないと考え続けてきました。患者さんのために本当に役に立つこと、患者さんの負担を減らす治療をしなくてはという思いでした。そのように、自分の目指すべきことだと定めてまっしぐらにやっていくと、何かを生むんですね。上皇陛下の心臓手術を執刀させていただいたことは、私の医師としての人生の中でもとりわけ大きな出来事でその結果は自分自身にも勲章のようなものになっています」
父親を心臓の病で亡くしたことをきっかけに心臓外科医を志望し、“人の3倍働く”をモットーに、自分を必要とする患者さんに向き合い続けてきた天野氏。上皇陛下の手術成功を受けて、多大な称賛を受けると同時に、もう頂点を極めたのだから辞めたらどうかという声もあったのだという
「とにかく患者さんのためにと一途一心で邁進し、ある一定の実績、業績をあげればすごいですねとみんなに評価されます。でも、そのときにふと足元を見ると、自分の欲や、そのために踏み倒してきたものとかいろいろなものが全部見える。あ、なんだそういうことかと。患者さんのためなどと言っているけれども、“要するにそれは自分のためなんじゃないか? 人に評価されることを目指してやってきたんじゃないか?”と。そう気づいたのが、上皇陛下の手術の後でホッと一息ついた頃でした。後ろを振り向かずにひたすら邁進しているときにはわからないんですね。それからは、少しでもそういう気持ちが自分の中に湧かないように、あくまでも患者さんのためという姿勢を崩さないようにやっていかなければいけないと、改めて思うようになりました。目の前の患者さんもそうですが、元気になったら喜んでくれるご家族のためにも、もうひと頑張りしようと思っています」
ひと頑張りではなく、まだまだもっと頑張って欲しいという声は大きいはずだが、2021年3月、天野氏は順天堂大学医学部の「一教授兼一外科医」という立場を退任した。その後は現役の心臓血管外科医としてメスを持つことにこだわり患者さんに向き合っていく一方で、医師を目指す学生たちや若い医師たちが将来働く現場を何とかしてあげたい、今までのご恩返しをしたいという思いが強くあるのだそうだ。
「日本の医療に関しては、このコロナ禍をきっかけに明らかになった問題も含め、医師の地域偏在などさまざまな問題があります。それを解決してよりよい医療の環境をつくるためには、医学教育の質をあげて一定化することが大事だと思っています。現在日本の大学には国公立・私立合わせて80余りの医学部があって、卒業するまでの6年間の学費は安いところで350~360万円、高いところで、4400~4500万円ぐらいです。中には、自治医大、産業医大、防衛医大のように在学中は生活支援をしてくれて、その代わり卒業後は一定期間、指定された機関で働くことを義務づけている大学もあります。それにならって、厚生労働省が納税者である国民に、卒業後一定期間医療業務を公平に提供する形で医学生の教育費を一旦立て替えて卒業後の教育向上と医師偏在の解消への取り組みをしてはどうかと考えています。自己負担の希望も認めて、卒業後はある人は3年間、別の人は6年間、または9年間というように診療科や個人の志向によって年月に差はつけるものの一定の期間、国の指定の機関で働くようにすればいいと私は思っているんです」
このように天野氏が提言するのは、医師を目指す人をとりまく環境、つまり高度成長時代から低成長時代に変わってきた日本社会の変化、そして現在まさに私たちの前に立ちはだかっているウイルスのパンデミック、さらには地方での医師不足など、今後起きるであろう医療の課題に対して国を挙げて一斉に立ち向かうにはその方がいいであろうと考えるからだ。
「日本の保険制度は、世界で一番患者さんが安心して受診できる制度です。この制度が続く限りは、医師の育成の仕方も、患者さんが安心して任せることのできる方法でなくてはいけないと思います。そういった点からも、昭和から続いてきた一県一医大構想もそろそろ見直す時期にきているのではないでしょうか」
そんな日本の医学教育のボトムアップの先に天野氏が見ているのが、日本の医療をまずアジアに輸出する、アジアを日本の医療マーケットにする、インバウンドならぬアウトバウンドの構想だ。
「日本の医療の現場で働いている人たち、医師だけではなく看護師や検査技師、その他いろいろな職種がありますが、彼らがアジアに出て行ったら売れっ子中の売れっ子になることができるでしょう。それぐらい日本の医療のレベルは高いんです。今はまだコロナが収まっていないので難しいですが、収束した暁にはどんどんアジアに出て行って、日本の医療の“面”を広げていくことが大事だと思います。それはとりもなおさず日本の医療の充実に繋がるし、今ある日本の医療の諸問題、生活習慣病とか高齢化とか、そういう問題を解決する答えも見つかるんじゃないでしょうか。そのためにも日本の医学教育には改革が必要だと思いますね」
上皇陛下の手術を執刀したことで一躍有名になり、患者さんには「やっと先生に会えました」とたびたび言われるのだそうだが、天野氏としてはむしろ「私の方が“やっと会えました”と言えるような患者さんに出会いたい」のだという。
「患者さんの多くは、私じゃなくても我々のチームだったら誰が手術を行っても結果は変わらないというケースです。しかし、相思相愛というか、患者さんも必死に助けを求めていて私だからこそ救える命というのがあると思います。そんな患者さんに出会う確率は日本を1とすれば中国はその10倍、ベトナムやインドまで広げれば20数倍になります。それらの国々では天皇陛下に対する憧れも強く、“是非私に執刀してほしい”という患者さんが日本にいらっしゃいますが、必ず言うのが“あなたがもし自分の国にいたら、わざわざ日本には来ません”ということ。つまり、私が今普通にやっている診療をそのままお届けすれば、十分その国で役に立つんです」
天野氏がかつてインドに行った際、大病院の受付に一般の患者の他に富裕層向けの受付があるのを目にしたのだという。それをみなは妬ましく思うのかというとさにあらず、むしろこの病院にはあんな金持ちがやってくると皆自慢げに語るのだそうだ。というのも、富裕層の高い診療費が、その他の人々の医療が支えられているという一面もあるからだったのだ。
「私はそういう国に行って、富裕層と貧困層と、両方の医療に身を投じたいと考えているんです。真ん中の層はその国の医療で十分なので、コロナが落ち着いたタイミングで、個人のために必要としている富裕層、なかなか高レベルの医療が届かない貧困層のために働きたいと思っています」
天野氏の好きな映画はアメリカン・コミック「バットマン」を原作とした「ダークナイト」。危機に瀕している人を助けるために奔走する主人公に自らを重ね合わせるのだという。
「たとえば、私が手術中に急患が運び込まれるとします。しかし、目の前の患者さんの状況が逼迫していて手が離せないから、急患は他の医師に任せてしまったら結果が思わしくない。自分が担当したらそんなことにならなかったかもしれない……と苛まれることはあります。そういう葛藤はずっとなくなることはないでしょう。完全に満たされることはないんです。でも、だからと言って人生を止めちゃったら負けです。自分ができることをできるだけやり、応援してくれる人、喜んでくれる人がいればそれでいいのではないかと思います」
昨年刊行された天野氏の著書『天職』には、「50代、60代こそ、心を燃やせ! 『闘う』心臓外科医に学ぶ無定年を貫く生き方」とある。人生100年時代と言われ戸惑っている層には魅力的な“生き方”と言えそうだ。
「中国の“千人計画”には、若い頃さまざまなコンクールで1等賞じゃないけど、佳作や次点を取った人たち、実用はされなかったけれども特許を申請した人たちのヘッドハンティングも入っているそうです。そういう人たちは、実は時代を先取りしていたのかもしれない。だから今50代、60代の方たち、過去にあまり評価されなかったけれども、その後自分の考えていたことが実現したなどという経験のある人は、今後自分の中にあるシーズ(アイデアの種)を具現化する可能性があるということです。過去を振り返ってみて、結構頑張っていたなという思いがある人は、ちろちろと燃えている火をもっと燃やすチャンスが巡ってくるはずですから、頑張って欲しい。その火を見つけて欲しいと思います」
一方で、さきほど話題になった日本の医療のマーケットを海外へ広げるためには、若い力も欠かせない。
「誰でも、自分はダメだと思うときはあると思います。私だって、たまたま母親がこういう外科医向きの体質に生んでくれたから多くの曲折はあったものの、ここまで来られました。若い人にはとにかくどんなことがあっても心は折るなと言いたいですね。自分の生きていく上でのテーマというものを自分で断ち切らないでほしい。時には足踏みしたり立ち止まったりしても良いけれど、また続けられるようにしてほしいです。外的圧力や人間関係に悩むこともあるでしょうが、それはこれまで好きなことをやらせてもらった我々が何とかしなければいけないことなのであって、若い人には夢を見失わないで欲しいと思います」
(まとめ)
昨年から、順天堂大学の「一教授兼一外科医」という立場を離れ、「特任教授、一外科医」となった天野氏に、その後の生活に変化があったかを尋ねると「ゴルフに行く時間が増えたぐらい(笑)」という答えが返ってきた。もちろんこれは謙遜であろう。なぜなら日本の医学教育から、医療のマーケットを広げる話までその心の中の火の勢いは全く衰えていないどころか強くなっていることがわかったからだ。コロナ禍を経て日本の医療はさらに発展していくことが期待できそうだ。
【取材・文:定家励子(株式会社imago)】
【写真:小黒冴夏】