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ウェルビーイングの実現に必要なのは 価値観を可視化し、尊重しあうこと

 

人の“よく生きるあり方、よい状態”を表す概念“ウェルビーイング(Well-being)”。ビジネスや生活のさまざまなシーンではもちろん、近頃は教育の場でも重要なテーマとして取り上げられることも多い。なんとなくイメージは掴めるものの、その本質は捉えがたいと思っている人もいるのではないだろうか。そこでウェルビーイング研究の第一人者である日本電信電話株式会社(NTT)上席特別研究員の渡邊淳司氏にその本質と実現に必要なことについて伺った。

 

ウェルビーイングは“個人”ではなく、“わたしたち”で実現するもの

 

ウェルビーイングとは、“よく生きるあり方、よい状態”と聞けば、誰もがそんな状態でありたいと願うだろう。ただ、具体的にどのようなあり方や状態であるのかと問われると、なかなか答えにくい。まず、ウェルビーイングを考えるにあたっては、3つの観点があることを知る必要がある。

1.医学的ウェルビーイング:病気や怪我がなく、⼼⾝の機能が不全でないこと。

2.快楽的ウェルビーイング:現在、よい気分であること。

3.持続的ウェルビーイング:⾃⼰の充足と周囲との調和がとれ、意義を感じて生きること。

1と2に関しては、異議を唱える人はいないだろう。問題は3だ。人によって自己の充足や生きることの意義を感じるシーンは異なるからだ。渡邊氏は、主にこの3を研究のテーマにしている。

 

「たとえば、よい天気というと、どんな天気を思い浮かべますか? 僕は少々暑くても晴れている天気が好きなんですが、雨や嵐がよいという人もいるかもしれません。同じようにウェルビーイングは、誰にとっても自分事ですが、それぞれの“よい”は個別なのです。そして、その“よい”は、単純に気持ちがよいというだけの話ではありません。今、目の前に美味しそうなケーキがあってパクっと食べてしまったとして、明日になったら“ダイエットしてたのに……”と後悔してしまうこともある。つまり、ウェルビーイングには現在の自分だけではなく、過去・未来も関係し、さらに、短期的視点の“よい”と長期的視点の“よい”のバランスといった面もあるのです」

 

一方で、ウェルビーイングがビジネスや教育の現場でも重要視されるのは、誰もが自分だけのウェルビーイングを求めればいいという“個”の問題ではなく、自分と相手、自分と社会を「わたしたち」と捉え、その充足を同時に考えるからだ。

 

「持続的ウェルビーイングに関して言えば、自分ひとりでそれを追及している限りは、よいもわるいもありません。しかし、会社組織のように自分以外の誰かと一緒に何かをする場や、地域社会や国、自然も含めた環境で暮らすことを考えると、“個”つまり自分のウェルビーイングを充たすことが、別の人のそれを損なう可能性もあります。ですから、“わたし”の充足を追及するだけでなく、 “わたし”と“あなた”、“わたし”と“社会”を、より大きな視点から“わたしたち”と捉え、その互恵的な充足を考える。さまざまな人たちのウェルビーイングを柔軟に調停する価値観、“わたしたちのウェルビーイング”が大事なんです」

 

ウェルビーイングは目指すべきものではなく、方向性を知らせる“北極星”

 

“わたしたちのウェルビーイング”を考える上で、大事なことはふたつあると渡邊氏は言う。ひとつは、自分も相手も “大切なこと”を持っているのを実感すること。それをまさに“実感”できるのが“心臓ピクニック”(*1)という、渡邊氏らが開発に携わったワークショップだ。白い箱・心臓ボックスから伸びるのは聴診器。片方の手でボックスを持ち、もう片方の手で聴診器を持って自分の胸に当てるとボックスが鼓動に合わせて振動し、生きていることを触感として感じることができる。

 

「これは、自分の鼓動を自ら感じることもできますが、そばにいる誰かにボックスを持ってもらえば、その人にも感じてもらえます。どうぞ持ってみてください。僕は心臓をあなたに渡してしまったので、何も隠すものがありません(笑)。そうしてお互いに相手の鼓動を感じることで、自分だけではなく目の前にいる人、さらには街を行き交う知らない人々も、それぞれひとつの心臓を持っていることを実感するわけです。そして、誰でも「生命として存在していること自体」に価値を見いだせるようになる。そうすれば、人それぞれで内容は異なるけれど大切にしているものがあるということが、実感として理解できるようになると思うんです」

 

ただ、人は自分が大切にしていることを語る“言葉”を持たない。もしくは語る場がない。ウェルビーイングは “北極星”のようなものだとよく言われている。ウェルビーイングは、それぞれがよく生きるための方向を示してくれるからだ。もちろん、そちらにどうやって向かうかは、それぞれに委ねられている。

 

「北極星は誰にも見えていて、誰もがそれを目印にして行動します。ただし、それぞれが思いのままに行動したとして、そのときに人と人をつなぐ言葉がないと、お互いに大事にしていることを踏みにじってしまうことがあります。たとえば“段取り”が重要だと思っている人に、“とりあえず来てくれる?”と言ったら、“え? どういうこと? なんで行かなくちゃいけないの?”ってなりますよね? そういうコミュニケーションのコスト、活動の上でリスクになるようなことは、本来なくてもいいはずなのに、働く場や学ぶ場に多く生じています。そういったコストやリスクを減らすことで、本来自分のやりたかったこと、時間をかけるべきことに注力できるようになるのではないかということです」

 

自分がよく生きる上で大事なことを表現するのに効果的なのが、渡邊氏が監修した“わたしたちのウェルビーイングカード”(*2)というツール。“熱中・没頭”、“挑戦”、“親しい関係”、“感謝”、“社会貢献”、“共創” 、“自然とのつながり”などといった、一見脈絡のないような単語が記されたカードが32枚ある。使用方法はいくつかあるが、一番シンプルな方法としては、何人かで集まりカードを広げて、その人が大事にしていることに対応するカードをそれぞれ1枚ずつ選び、選んだ理由やエピソードを話していくというもの。

 

 

「たとえば僕は、“応援・推し”のカードを選びます。誰かが輝く時に周りの人がどのように関っているのかというのが面白いと思っています。僕は、実はプロレスが好きなんです。プロレスは格闘技と違って、敢えて相手の技を受けることによって相手が輝いたり試合が面白くなります。どんな選手でも、相手に勝ちたいという気持ちはあるはずなのですが、それ以上に試合をしているふたりが一緒に会場を盛り上げるために協働しているというか。負け方の上手い選手がいて、そういう選手に最近は惹かれるんです……というような感じで、その人の大事にしているものがカードをきっかけに引き出される。その人の人となりを形づくる背景が明確に見えてくるんです」

 

この時渡邊氏は、カードを選ぶまで何を話すかを決めていたわけではない。しかし、“応援・推し”のカードと共に出てきた話は、自分の中のもう一人の自分、無意識ではあるものの自分が大事にしている事柄がカードとともに現れてくるのだという。

 

「僕は、ウェルビーイングは、無意識の中にあるものだと思っています。それは、なかなか意識したり、明確に言葉にすることができない。カードを使って話すのは、目の前の相手に対してであるのと同時に、自分との対話でもあるんですね。カードを使うなどして、普段気がつかない自分が大事にしていることや、相手が大事にしていることを可視化し共有することが、お互いのウェルビーイングの実現に必要なのだと思います

 

見えないもの計れないものの中にこそ、その人の本質がある

 

人の無意識の中にあるウェルビーイングに関する“価値観”。それをあぶり出すためなのか、カードに記される単語には“時間を超えたつながり”や“あらゆるものへの祈り”など一見何をイメージすればいいのか迷うようなものもある。

 

「身体とお金に関することは、あえて入れませんでした。身体は健康である方がよいに決まってますし、お金も数が多い方が一般的にはよい。そのように正解が決まっていたり、数値で表されたりするものは横に置いておいて、見えないものの中にこそその人の本質があって、それに気がつくことが大事だと思ったからです

 

渡邊氏がウェルビーイングの研究に携わるようになったのは、シドニー大学の研究者とデザイナーが書いた1冊の本に出会ったのがきっかけだという。それまで人間の五感のひとつ“触覚”の研究を通じて、人と人との間にある親密さや共感、信頼について学びを深めていた渡邊氏は、ウェルビーイングとテクノロジーを結び付けていくことがこれからは重要になると思い至ったそうだ。そして、その本の翻訳に取り組むことになる。

 

「『Positive Computing』(邦題:「ウェルビーイングの設計論 人がよりよく生きるための情報技術」、ビー・エヌ・エヌ刊)という本を翻訳した当時(2017年)は、まだウェルビーイングという言葉は知っている人はあまりいませんでした。また同時に、触覚を遠くに伝送する研究を行っていたのですが、「伝送なんてしないで直接会えばいいじゃない?」という反応も多くありました。しかし、それが、コロナ禍でずいぶん状況は変わりました。人と人との関わりは重要だということに多くの人が気づき、本当の幸せとは何か、幸せはどのように測ることができるのかということを考え始めたのです。例えば、さっき触れてもらった、心臓の鼓動を手の上の触感として感じる“心臓ピクニック”の体験は、お互いの命の大切さを感じ合う体験ですし、触覚とウェルビーイングは、決して無関係ではないんですよね。また、心臓の鼓動の触覚情報は10,000km離れたところへ送ることもできます。2023年に、東京の子どもの心臓の鼓動をニューヨークの子どもへ伝送するという体験を実施したことがありますが(*3)、ニューヨークの子どもからは、物理的には遠いけれども心は近いと感じることができたという感想をもらいました」

 

本来、人のウェルビーイングを測る物差しはいろいろあって、お金のようにすべてを数値にできるわけではないと渡邊氏は語る。

 

「誰でも、いくつかの大事な価値観を持っているはずです。先ほどのウェルビーイングの要因の書かれたカードを誰もが数枚持っているというイメージです。普段はそれを見せずに行動しているので、たとえば、みんなで山に遊びに行って、楽しかったから今度は海に行こうかという話が出た時に、“自然とのつながり”のカードを持っている人は乗ってくるかもしれませんが、“挑戦”のカードを持っている人にはピンとこない可能性もあります。海では挑戦ができないと。従って、それぞれの人の行動の背後にあるカードを知ることは、ウェルビーイングを実現していくにはとても重要なんです

 

組織がウェルビーイングを宣言すると、個が活かされるようになる

 

 

ウェルビーイングとは、全員にとっての正解は存在せず、ひとりひとりが持つ大切なものです。それを可視化し、それぞれにとってのウェルビーイングの実現方法を見いだせるような関係性、場や時間を用意することが重要になる。

 

最近では、自社のパーパスやバリューに“ウェルビーイング”を掲げる企業も増えてきている。会社のような組織、チームでウェルビーイングを指針に持つことにはどのような効用があるのだろうか。

 

「たとえば、ある企業が“大事にしているものは売り上げです”と宣言します。企業は利益を上げることを目的とした集団なので当然ですが、それ以外に、企業、つまり法人として営利活動をウェルビーイングに行うために大事にしていることは何か、それを同時に伝えないと、従業員は効率的に売り上げを上げるための“道具”としてしか価値を持たないことになります。何かを評価する時に物差しが一つしかないと、それに合わせてすべてが最適化されます。しかし、物差しが二つ以上あると、いつどの物差しを大事にするのか、バランスを考えるようになります。つまり、企業は、売り上げという結果だけでなく、そのプロセスでどのようなウェルビーイングを実現するのか、それを宣言することに意味があるのです。抽象的にウェルビーイングというだけでなく、もう少し具体的に、社会課題解決に貢献する働き方、自分の時間が自由になる働き方など示すことで、従業員はどのように働けるのかを、ひとりひとりが考えることができるのです。その企業のウェルビーイングのあり方を宣言することで、従業員は個人個人のウェルビーイングだけでなく、個人が全体に対して何ができるかということを具体的に考えられるようになります。自分のリソースや実現したいことを考えながら、組織への貢献に繋げていけるという意味で、大事なことだと思います」

 

ウェルビーイングは、ビジネスの場はもちろん、近年では教育の現場でも取り組むべき課題として取り上げられることが多い。事実、昨年文部科学省が公開した第4期教育振興基本計画では、コンセプトのひとつとして“日本社会に根ざしたウェルビーイングの向上”が謳われている。それを受けて渡邊氏らは、学校の教師向けにその指針と授業の実践例などをまとめたパンフレットを制作した(*4)。

 

「学校でウェルビーイングについて学ぶというと、どうしても知識を身につけて、その到達度を計測してこれは高い、これは低いというような話になってしまいます。そうではなくて、自分たちの状態がわかった上で、どのようにしたら自身や周囲の人のウェルビーイングが実現されるのか、お互いを尊重しながら話し合える資質や能力を育む必要があります。それがウェルビーイング・コンピテンシーの考えです

 

ウェルビーイングは、自分や自分と近い関係にある人々のことについてはわかりやすいが、それを社会や世界に広げるとなると、ハードルが高く感じてしまう人は多い。

 

「社会や自然のことを、どうしたら自分事にできるかというのは僕にとっても課題ですね。最近、 “流域”という考え方について興味があるのですが、水は空から雨として降ってきて、山に降った雨は川を流れて海に注がれます。それが蒸発して雲になり、また雨となる。たとえば、この水の流れに着目すると、とても大きなループを描いていて、その生態系に対して人はどう関わっているのかという視点でものを見るようになります。この流れを水だけでなく、モノやお金、エネルギーや情報に置き換えても同様です。この流域や流通という流れに注目していくといろいろな事柄の見方が変わっていき、より大きな課題に対しても自分事として行動できるのではないかと考えています

 

(まとめ)

“よく生きるあり方、よい状態”を表すウェルビーイング。何となく理解はしていたものの、具体的にどういうことかと問われれば、明確に答えるのはなかなか難しい。それは、そもそも私たちが、自分の行動の背景にある“大事なもの”が可視化・言語化できていなかったからなのだ。まず自分を知ること。そばにいる人を知り、遠くにいる人にも思いを馳せる。“わたしたちのウェルビーイング”の実現は、そこから始まるのだろう。

 

 

取材・文:定家励子(株式会社imago)

写真:吉永和久

 

 

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